COLUMN
連載
相双U-30座談会「被災地の10年、これまでとこれから」【前編】
東日本大震災から10年を迎えます。相双地域で活躍する方々はこれまでの10年と、これからの10年にどのような眼差しを向けているのでしょうか。
今回、HOOKでは過去にインタビューに答えてくれた3名の方々に声をかけ、座談会を企画しました。参加者は南相馬市の株式会社野馬追の里が運営する商業施設「セデッテかしま」で副店長を務める小川有哉(おがわ・ゆうや)さん、浪江町役場で広報を担う及川里美(おいかわ・さとみ)さん、楢葉町の交流施設「みんなの交流館 ならはCANvas」を運営するまちづくり会社「一般社団法人ならはみらい」で働く森雄一朗(もり・ゆういちろう)さんの3名です。
震災後の歩みから、新型コロナウイルスの影響を受けた現在のこと、そしてこの先の10年を見据えた課題とこれから向かっていこうとしていることまで。前後編でお届けします。
それぞれの震災、それぞれの10年。3人が福島で働いている理由
--東日本大震災のあった2011年3月11日から10年となります。福島県出身でUターンをした小川さんと及川さん、群馬県出身でIターンをした森さんとこれまでの10年、これからの10年にというテーマでお話をしたいなと思いお声がけさせていただきました。
現在福島県の相双地域で活躍されていますが、まず震災当時から現在までを伺えればと思います。当時はみなさん学生だったと伺いましたが、東日本大震災という出来事をどのように受け止められましたか?
小川さん:私は大学1年生の春休みに地元である南相馬市鹿島区に帰省している時に被災しました。原発事故の報道があってすぐに山形県に避難をしたのですが、うまく事態が飲み込めないというか… きっとみなさんにとってもそうだと思いますが言葉にならないような経験でしたね。大学に入学して1年が経ち好き勝手やっていた時期でしたが、これから先どうなるのかと、ただただ不安でした。
それから2,3年経ち、生活が落ち着いてきたころに就職活動が始まりました。地元への思いもありましたが、元々地元を出たいという考えもあり、卒業後は東京のアパレル会社に入社しました。
《小川さんプロフィール》
福島県南相馬市鹿島区出身。アパレル会社を経て2015年に株式会社野馬追の里に入社。復興をコンセプトにした商業施設「セデッテかしま」で商品の企画から販売に従事。現在は副店長を務める。
及川さん:私は小川さんと同い年で、震災当時は仙台のキャンパスに通う専門学校の一年生でした。元々は地元の病院に就職しようと思っていたんですが、浪江町は福島第一原子力発電所の事故の影響で全町避難になったこともあり、仙台の病院で働くことにしたんです。
そこで陸前高田出身の夫と出会い、結婚をして陸前高田に引越したんです。当時は地元である浪江町の情報を遠ざけていたところがありました。小川さんの言うようにネガティブな面ばかりがニュースに取り上げられていた時期だったので、そんな地元の姿を知るのが辛かったですね。
《及川さんプロフィール》
福島県浪江町出身。仙台市の専門学校卒業後、陸前高田市の温泉宿で広報を担当したのち、2019年に浪江町へUターン。現在は浪江町役場の広報として、SNSなどを活用し地域の内外へ向けた情報発信を担う。
及川さん:でも、陸前高田では地元の若い方々がすごく前向きに頑張っていたんです。それに触発されて地元のために何かできることはないかなと考え始めたんです。最初は浪江に通いながら情報発信の手伝いをしていたんですが、きっかけがあり浪江に戻ることを決意しました。遠回りして、帰ってきた。という感じです。
小川さん:遠ざけていた気持ちはすごくよく分かります。転勤先の愛知にいたときに地元の報道を見てハッとしたんです。すごくネガティブな報道がされてしまっているのがショックで。それまで後ろめたさというか、何かしら福島に貢献したいなと思っていて行動には移せていなかったのですが、その経験がきっかけで地元に戻ろうと考えましたね。
--Iターンで楢葉町に移住した森さんはいかがですか?
森さん:私はお二人よりも少し下の世代で、震災の年は中学校から高校に進学する直前でしたね。高校に入ってからは新しい環境に慣れることに必死で東北に目を向けている余裕もなく、当時は自分ごととしては捉えられていませんでした。
ですが、大学に進学して授業の一環で田老、陸前高田など東北の沿岸部を訪れました。岩手、宮城県内と比べて楢葉は復興もまだまだこれからという状況で人影もなく、草も伸びきっていて。被災地といっても場所によって全く違う状況というのを目の当たりにしたんです。
岩手、宮城県を回った後に楢葉町を訪れて役場の人と話した際に「震災があってよかったと思える生き方をしたい」とおっしゃっていて、その言葉がすごく印象に残りました。
《森さんプロフィール》
群馬県大泉町出身。大学時代の授業で楢葉町に訪れたことをきっかけに復興支援活動に取り組み始めた。大学卒業後、地元の銀行を経て2018年に楢葉町の交流施設「みんなの交流館 ならはCANvas」を運営するまちづくり会社「一般社団法人ならはみらい」に入社。
--森さんはその大学時代の経験をきっかけとして、卒業後に福島への移住を決めたんですよね。
森さん:そうですね。一度地元の銀行に就職をしたのですが、やはり楢葉町に貢献したいという思いから、移住をしました。
なので私が今楢葉町で働いているのはそうした偶然の出会いの結果なんですよね。いろんな人のご縁が繋がってたまたまたどり着いたので、もしかしたらお二人のいる浪江町や南相馬市だったかもしれないなとは思います。
相双地域の「いま」を知ってほしい
--HOOKで相双地域の取材を続けてきて感じたのは、「いまの福島」の姿が伝わっていないことに課題を持っている方が多いということでした。それぞれの地域によって状況は異なりますが、みなさん共通して仰られていたんです。
及川さん:そうですね。浪江町はいまだに「原発事故被害のあった町」「放射能が高い」と言われてしまうことがあるんです。「人が住めるの?」なんて言葉を投げかけられることすらあります。
ですが、2017年3月の一部地域を除き避難指示解除から4年がたち、みなさん日常生活を取り戻しているんですよ。それをもっといろんな人に知ってほしいなと思って役場で広報として働いているのですが、そうした視線が向けられるということはまだまだやることは山積みだなと感じますね。
--お2人は浪江町にどんなイメージを持たれてますか?
森さん:楢葉町は避難指示解除後も1年あまりは飲食店が数店しかないという状態が続いていたので、お店が再開するまでの早さには驚かされました。
また、会議などで地域の方にお会いしても意見をしっかりと出している方が多いのが印象的です。自分たちで地域を盛り上げていこうという意識が強いんだなと。こういった方がガツガツと前に進めているのだろうなと想像します。
及川さん:嬉しいですね。「ガツガツ」という表現はすごくよく分かります。確かに、積極的な方は多いかもしれません。なぜだかはわかりませんが(笑)
森さん:やっぱりその町のイメージはそこに暮らしてる人からつくられていきますよね。町の人が元気なら元気なイメージが沸きますし、その逆も然りで。
小川さん:私も同感ですね。商業施設の運営に携わっている人間としては浪江町は相双地区で一番前に進んでいる地域というイメージがあります。道の駅が開業したり、イオンがオープンしたりと生活のインフラが整っていますしね。実際に訪れて街並みも道路も綺麗になっているように見えました。
--南相馬のイメージはいかがですか?
及川さん:浪江町と比べると都会で住みやいですよね。商業施設、薬局、スーパー、ゲームセンターもあって、電車の本数も多く羨ましい場所だなと思います。私も買い物やポケモンGOをやりによく行ってます(笑)
森さん:私も1人でふらっと行くことが多いですね。県外から観光で来るような方が多くて羨ましいなと思います。南相馬に訪れた人をどうやって楢葉町に呼ぼうかと考えているぐらいです。
小川さん:周辺の地域よりも早い段階で避難指示が解除されたので復興への対応は早かったかもしれません。今は他の地域から移り住んでくれる人を呼び込むことに力を入れているんですが、暮らしやすいだけでは移住先としては弱い。積極的に移り住みたいと思ってもらえるようにするためにはどうすればいいのか。といったことが課題だと思います。
--それは移住者を増やすという目線では、長期的な地域の課題でもありますね。
森さん:休みの日に楽しめるような場所があるといいですよね。移住者である私自身の悩みでもあるんですが、娯楽施設があったらもう少し人の行き来が増えるのかなと想像します。
小川さん:ご年配の方々にとっては福祉を充実させることが必要ですが、若年層を対象にしているなら娯楽は必須ですよね。スパ施設などゆっくり過ごせるような場所があると良いなと思います。
離れた人とつながりを持ち続けること。コロナで顕在化した地域の課題
--そうした地域の課題がありつつ、昨年の2月より新型コロナウイルスの感染が拡大していきました。みなさんのお仕事にも影響はあったのでしょうか。
小川さん:セデッテかしまは商業施設なので、もともと県外から往来される方が多かったんです。ただ昨年2月の感染拡大後から徐々に客足が減り始め、5月の緊急事態宣言で商業施設は営業停止を余儀なくされました。開業して5年経ちますが、はじめての完全休業を迫られました。
--やはり、店舗は直接的な影響があるのですね。
小川さん:そうですね。一時期、GoToの経済効果で盛り返しましたが、2021年1月に緊急事態宣言が再発令されてしまい、また元に戻ったような状態です。施設にとってはオープン以来最大の困難とも言えるかもしれません。消毒や、ソーシャルディスタンスを保つための取り組みを徹底しながら営業しています。
森さん:楢葉町のここなら笑店街、ならはCANvasも一時期は営業時間を短縮していました。毎月住民向けに行っていたイベントも今年は開催が難しそうで、そうなると町民の方の交流の機会が減ってしまうんですよね。例年は学生と町民の交流イベントなども実施していましたが今年は学生の受け入れもできず対策を考えているところです。
この1年で積み上げてきたものや、新たに生まれた繋がりの糸が途切れてしまうことが痛いですよね。こうした状況下でも繋がりを継続できるような方法を模索しています。
ただ、地域の外の方とのつながりを継続していくことは、もともと長期的に持っていた課題。コロナウイルスによってそれが顕在化した。いずれにせよ向き合っていかなければならないと感じますね。
(2021/1/24取材)
-
取材:高橋直貴、宗形悠希
執筆:高橋直貴 -
HOOK 2019年取材記事 小川有哉
https://fukushima-hook.jp/interview_ogawa/
HOOK 2019年取材記事 及川里美
https://fukushima-hook.jp/interview_aoikawa/
HOOK 2020年取材記事 森雄一朗
https://fukushima-hook.jp/interview_ymori/
相双U-30座談会「被災地の10年、これまでとこれから」【後編】
https://fukushima-hook.jp/kikakupart2/