INTERVIEW
インタビュー
一度は諦めた花屋の夢。川内村でさらに大きく、華麗に花開く
福塚裕美子さん
福島県・双葉郡にある川内村。そこで完全予約制の花屋「Fuku Farming Flowers」を営んでいる大阪出身の福塚裕美子(ふくつか・ゆみこ)さん。以前の勤め先の同僚が川内村出身だったことをきっかけに2012年に移住してから2年半滞在し、その後、一度村を離れ、2018年からあらためて川内村での暮らしをスタートした。自身の花屋を開くという夢を持ちながら、紆余曲折があったという福塚さんは、現在「川内村に骨を埋めるつもり」と話す。現在に至るまでどんな経緯があったのだろうか。
移住したのは、川内村の風景を取り戻したいと思ったから
出身地である大阪で23歳まで過ごす中、たまたま花屋で働くことになったという福塚さん。飽き性だと自身の性格を分析する彼女にとって、植物のエネルギーや季節のサイクルのスピードが性に合っていたそう。その後、花屋を一生の仕事と決め、東京の園芸店へ。そして東京で働き始めて1年が経つ頃、震災が発生した。そのとき、同僚が川内村出身だと知り、実際に足を運ぶことになる。
「震災が起きて、被災地のために何かしたいなと思っていました。でも私は東北にゆかりがなくて、思いだけが募って、苦しかったんです。そのとき、東京の園芸店で一緒に働いていた同僚が川内村の出身と知って。村が全村避難の状態で大変なことになっているけど、同僚も一度も帰っていないということだったので、なんかできることある?と聞いて村に行ったのが最初です。」
当時、村民は避難していたため、田んぼは人の背丈以上の雑草で埋め尽くされていた。同僚の方がとても悲しんでいるのを見て、震災前の風景を取り戻す手伝いをしようと決意したそう。ただ、東京で3年働いてから、ドイツへ行くという目標を持っていたという福塚さんは、一度東京へ戻り、機会を見つけては川内村へ通った。当時働いていたお店や自身の夢とも折り合いをつけながら、震災から1年後、ついに移住することに。
「何回か一人で村に通って、自分の目で色んな状況を確認しました。放射能のこともWebで自分なりに調べて、自分の中で大丈夫だなと思って。その後すぐ帰村宣言も出て、これは行こう、と迷いはなかった。そこは、自分の心のままにというか。自分が行った方がいいと思っているのに、行かないで悶々としている方がしんどいなと思うタイプなんです。」
地方暮らしは初めてだったが、想像していたよりも快適な環境で、特に不便さも感じなかった。それよりも、「東京に自分の夢を置いてきた」という福塚さんにとって、求めるものは田んぼのある風景を元に戻したいということだけだった。
花を封印し、コミュニティ作りと農家支援に邁進
移住後すぐには、田んぼなど農業に関わる支援活動ができなかったため、まずは役場の職に就き、コミュニティ作りに専念することにしたという福塚さん。花にまつわる活動は「中途半端になってしまうから」と一切しなかった。
「役場の窓口で一年間働いて、その間に会う人に声をかけまくって、イベントやサークル、飲み会など何でも参加しました。その中で、若い人は村内で仕事をしていても、娯楽は村外に求めていることに気付いたんです。そこで、村の中でも若い人たちが集える場所を作りたいと思い、やったこともないのにソフトバレーボール部を立ち上げたんです。」
それをきっかけに、若い人たち同士の交流が進み、村の中で楽しく過ごせる環境ができていった。地元の人たちもとても喜んでくれていたという。そんな活動をしながら一年が経ち、当初の目的でもあった農業に関わる活動に専念するために役場を辞めた。
「農業の活動を始めるにあたって、農家さんのところで働いたり、イベントを開催したり、オリジナル商品を作って販売したりしました。風評被害で未来が不安という状況だったので、農家さんの心に一つでも希望の光が差し込むといいなと思ったんです」。
私は戻ってきたいんだ、と気づいた
農業の活動を続けていた福塚さんだが、移住してから2年ほどで川内村を離れることになる。悔しい想いと罪悪感があったという。なぜ村を離れることになったのだろうか。
「理由は3つあって、まず一番はお金です。一人で来て、いろんなイベントをやっていたので、どんなにバイトしても貯金を切り崩しても、回らなくなってしまって。あとは年齢。ドイツの花屋で働く夢を実現するためのワーキングホリデーの上限が迫ってきていたんです。最後は、一人で活動することに限界がきました。国や企業、大学の規模だと、個人とは比べ物にならないくらい大きな支援ができるんですよね。それで自分一人が支援できることはもうないかもな、と。まだ移住してから2年半ほどで、やり切っていないこともあったのですが、この3つが揃って出ようと決めました。」
その後、名古屋へと引っ越し、勉強しながら働いた。それでも年に2、3回は村に帰り、イベントがあれば参加。村を離れても、村のことを忘れたことはなかったそうだ。そしてかねてより夢だったドイツへと行くことに。
「念願叶ってドイツに行けるとなったときに、川内村の人たちにサプライズで報告に来ました。そのときに、自分でも驚いたんですけど、『ドイツから帰ってきたら川内村に戻ってきます!』って口から勝手に出てきたんです。それで、ああ、私は帰ってきたいんだ、と。その心に従うことにして、ドイツに行ったら1年で日本に帰ってくると決めたんです」。
花屋として成功することで認めてもらいたい
日本に戻った後、大阪や東京でしばらく働きながらお金を貯め、2018年、ふたたび川内村に戻ってきた。現在は、移動式の花屋を立ち上げ、Fuku Farming Flowersとして活動しているという福塚さん。1度目の移住と2度目の移住で、心境に変化はあったのだろうか?
「以前は支援者としてどこか気を張っていて、川内村から一歩も出ないという気概を持っていましたね。でも今は、単純にこの村が好きで移住してきたと素直に思えます。気持ちが楽になりました。だから遊ぶときは遊ぶ、集中するときは集中するというメリハリが付けられています。」
現在は「花屋として自分が成功することでしか認められない」と新たな気概を持って、川内村から飛び出し、その活動の範囲を広げながら自身の花屋の営業に専念している。
「ゆくゆくは川内村で出店したいのですが、今は自分の活動と花を知ってもらうためにとにかく外に出て営業をしています。村の中だけじゃなく、郡山に仕入れに行ったり、双葉郡の他の場所に行ってみたり、イベントに参加したり。今は、双葉郡で再開している花屋さんがないので、最終的には川内村で私の花を買いたいと思ってもらえるように活動しています。」
花屋の夢は、さらに大きく
今では「川内村に骨を埋めて、散骨してもらうつもりです」と語る福塚さん。将来の夢は川内村で花屋さんを開くことかと思いきや、さらにスケールの大きな目標を語ってくれた。
「花屋だけでなく、人が来る目的になる場所という視点で、お店を作りたいと思っています。というのも、川内村はこのまま行くと20年後に人口が900人になると言われていて。自分があと40年以上生きていこうと思っている村で、人が少なくなるのは単純に嫌じゃないですか。そうなると花を売るだけでは、たくさんの人は来ないと思うんですよね。」
ずっと住みたいと思っているからこそ、自分の生業だけでなく俯瞰して村のことを考える福塚さん。具体的にどのような場所にしたいと考えているのだろうか。
「村内にまだまだ少ない飲食店は絶対に必要だと思っています。それに加えて、飲食店に来た人の物欲を刺激する器とか絵とかも置きたい。そういう事業のひとつとして花屋もあったらいいな、と。花を買うだけでは行きづらいかもしれないけど、一緒に美味しいご飯を食べられるなら行こうか、ご飯食べに行くついでに器も見に行こうか、なんてふうに思って来てくれる人を少しずつ増やしたい。今は目ぼしい物件を探しているところなんです。」
花屋からさらにスケールアップした夢は、どうやらサポートしてくれる仲間が必要そうだ。そんなふうに思っていたら「ちょうど今仲間探しをしているんです!」と嬉しそうに答えてくれた。
「ワンピースのルフィになった気分で(笑)。でも冗談じゃなく、この構想はとにかく人に話すことが大事だと思っています。夢を語って人を引き込む。そして物件が決まっていざ動くぞってなったときには、ちゃんと私がお金を持って、さあ始めるよ!って言えるように。」
「どこで生きていてもコミュニティを作ってしまうタイプですね」と話す福塚さん。川内村がさらに魅力的な村になっていく過程で、福塚さんとその仲間たちが大きな役割を果たすことは間違いないはずだ。
(2019/9/25取材)
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取材:宗形悠希
執筆:石川はじめ
撮影:古澤麻美 -
Fuku Farming Flowers
https://fuku-farming-flowers.shopinfo.jp/