INTERVIEW

インタビュー

南相馬の子ども達、すげーカッコイイでしょ。って私は言いたい

狩野菜穂さん

出身地:山口県 
勤務先:南相馬&杉並トモダチプロジェクト
勤務地:南相馬市・東京都杉並区 
勤務期間:2012年~ 
年齢:45歳

南相馬市と東京都杉並区で子ども達に歌とダンスを教え、定期的に両地域の子ども達が交流するプロジェクト。

”南相馬&杉並トモダチプロジェクト”

代表を務める狩野さんは、有名なアニメの曲を歌うなどメジャーデビューも経験した。いまは約300㎞離れた杉並区と南相馬を週の半分ずつ行き来しながら、それぞれの地域で子ども達に歌とダンスを教えている。2016年には住所を移し、南相馬に拠点を構えた。遠い距離を毎週行き来するのは楽ではないと容易に想像がつく。それでも、二拠点生活を送りレッスンを続ける理由を伺った。

野球が繋いだ南相馬との縁

京都府生まれ、山口県育ちの狩野さんは、広島大学の教育学部に進学しバンド活動に明け暮れた。

「先生になる。と母に伝えて進学しましたが、東京で歌手になりたいと考えていたのでバンド活動ばかりやっていましたね。オリジナルの曲も作って中国大会でも優勝しました。そうしたら大手のレコード会社から声がかかり東京に行くことに。上京後、様々な音楽の仕事を経験した後に、当時流行ったアニメソングの仕事でデビューしました。」

誰もが知っているようなアニメの曲も担当するなど、ご自身の夢を着実に叶えていった狩野さん。南相馬と関わるようになったきっかけは息子さんの野球だった。

「子どもが野球をやっていて、6年生になった時に杉並区の代表に選ばれました。姉妹都市である南相馬市の野球チームと毎年交流試合をしていましたが、その年は震災だったため行けませんでした。それまで私の人生で一切出てこなかったキーワード”南相馬”が初めて出てきた瞬間です。大変な状況なのは聞いていたので、自分も何かできることはないかと考え始めました。」

南相馬市ではバットやグローブが流されてしまい、野球ができる環境では無かった。そんな状況を知った少年野球チームの監督が道具を寄付する活動を始め、狩野さんもこの活動を手伝い始めた。

「良かれと思って箱のなかにどんどんバットを詰めて送ってしまったんですね。そうしたら、お父さんチームが使っていた値段の高いバットまで入れてしまって・・・(笑)お父さん達にはものすごく怒られました。南相馬でバットを受け取った事務局のパン屋さん”パルティール”の方からも、『なんだか高いバットばかりあるけどもらっていいの?少年野球にはこんな高いものじゃなくていいのよ。』と言われて、やばい!と事の重大さに気づきました。」

バットを返してもらうために南相馬へ向かいます!そう言ってやり取りが始まったのが震災から2か月後の出来事だった。

パン屋さんのCMソング

「パルティールの方からは『バットを取りに来れる状況じゃないから、いつになるかわからないけど、落ち着いたら必ず送り返します。』と言われました。ただ、こんな大変な状況の時に申し訳ないと思い、毎日連絡をして南相馬市の現状を聞きました。電話口の声はとにかく明るいんですよ。『東京は物が足りてるか?』とこちらの心配までしてくれて。いま考えればその頃、人は避難してていないし、大変だけど必死に明るくしていたんだなと。ものすごく逞しい人たちだと感じました。」

そんな状況を聞いて自分にも何かできないかと考えたが、世界中から物資が集まり物は足りている。それならできることは音楽だと。そうして狩野さんはパン屋さんのCMソングを作りはじめた。

「当時は、手を繋ごう・寄り添おう・君のそばにいるよ。こんな歌詞が多かったのですが、南相馬のみんなは明るいからそんな歌詞はいらないなって。一か八かで明るいメロディーにしてCDを送りました。」

パ パ パルパル パルティール
おいしさ ふんわり 焼き上げて
パ パ パルパル パルティール
みんなの笑顔に パルティール
朝焼けより早く起きだし
小麦粉まみれの笑顔
さあ はじまる新しい朝に
希望の匂いがするよ

「これが欲しかった。こういうのが欲しかったんだよ。」パン屋のご主人は泣きながら電話をくれ、ご自身でCDを焼き増しして、南相馬市内のパン売り場で曲を流してくれたという。曲が広まるとそれにあわせて子ども達が踊っていた。その様子を聞いた狩野さんは、南相馬のパン売り場で歌うために現地に向かった。

「2011年の11月でしたね。ライブの機材とか全部持ってパルティールさんのパン売場で歌いました。それまで有名なアニメの歌なんかも歌ってきましたけど、そんなことよりも、そこに子ども達が来て歌に合わせて踊ってくれたことが何よりも嬉しかったです。」

もう8年前のことだが、南相馬と繋がるきっかけは狩野さんにとって大きな出来事だったのだろう。少し目を潤ませた狩野さんの表情が印象的だった。

杉並区と南相馬を往復する生活のはじまり

はじめて南相馬を訪れたときは3日間滞在し、最終日には少年野球の事務局の方が旅館を貸切ってライブを企画してくれた。

70名ものお客さんが集まり、ライブの終盤には全員がステージに上がってパルティールの歌を大合唱した。客席には飲み干されたお酒の空き瓶と大宴会の残骸だけが散らばっていた。”何か起こる”そんな予感がして鳥肌が立ったという。

「ある女性の方から『ありがとうね。やっと泣いた。ずっと泣けなかったけど音楽って涙がでるわよね』と声をかけられました。ずっと堪えてらしたみたいで。その瞬間に”これはやばい”と。本当はこれでやめようと思ってて。やめるっていうか、そんなに先は続かないと思ってたんですけど、そこから毎月南相馬に来る生活が始まりました。」

パルティールの歌は南相馬市内で広まり、他の企業や団体からもオリジナルソングの作成依頼がくるようになった。南相馬市で子どもの遊び場づくりや子育て支援を行っている団体、NPO法人みんな共和国のメンバーからも同様の依頼があった。

「『あのパンの歌いいよね。俺たちの歌もつくって』と、大雑把な依頼をされまして。一応プロだし、そんな注文のされ方したことないんだけどなと思いつつ。ピアノ一台で作った曲を送ったら『これこれこれ、これが欲しかったー!』って。」

少し強引なお願いをきっかけに完成したのが、杉並区と南相馬の子ども達を結ぶ曲、”みんなのうた”だった。2012年5月5日の子供の日にイベントがあるから歌いに来てほしいと、みんな共和国のメンバーから連絡が入った。

「その日は長野で仕事があったので、新幹線を乗り継いで南相馬まで行きました。そこで私が歌って、はじめてみんながその歌を知るのかと思っていました。でも、ピアノを弾いた瞬間に子ども達が後ろで歌うんですよね。なんでデモテープで練習してんのって思いながら、またグッときてしまって。これはここから離れられないなと思いました。それから、その曲に踊りをつけて、東京のダンスの先生と2人で本格的に毎月レッスンに来るようになりました。」

音楽に対する気持ちの変化

ここまでを振り返ると、”みんなのうた”という一つの曲に向かって流れていったように感じると狩野さんは言う。

「子どもを産まなかったら少年野球をやらせていないですし、CMの仕事をやってなかったら南相馬でパルティールの曲も作ってないですし、教育学部を出ていなかったら子どもに教えるとか多分しなかっただろうし。なんか無駄なく全部、”みんなのうた”っていうところに繋がったなと感じています。」

狩野さんの活動は杉並区でも知られるようになり、南相馬での活動と歌を小学校で紹介すると、自分も練習したいという子ども達が出てきて、東京でもレッスンが始まった。地域のお祭りで練習の成果を披露すると、子どもだけでなく親御さんも次の発表を楽しみにするようになっていったという。

「私の中で段々と音楽に対する考え方が変わってきていて。流行り歌を作ったり、アニメソングを歌うのも嫌じゃないんですけど、”みんなのうた”ができた時に、音楽や歌のあり方っていうものが180度ひっくり返っちゃって。誰かのため、お金のために歌うわけじゃないけれど、これだけ沢山の人達の心に作用するっていうのも体感してしまったので、ちょっと心持ち的に流行り歌に戻れなくて。仕事が来てもほとんどできませんでした。そうしたら事務所の社長さんから『あなた、心が全部福島にいってしまったんだったら、一回いまの仕事をやめて、大変かもしれないけどそれだけを一生懸命やった方がいいんじゃないの』って言われたんですね。」

社長からの言葉はあったが事務所にはそのまま所属し、2つの地域を往復しながらのレッスンは続いた。離れた場所にいても、同じ歌を練習している子ども達を一つのステージに上げたい。そんな思いで、2013年9月に杉並区高円寺の施設を自腹で貸し切り、南相馬の子ども達も呼んで公演を実施した。それがトモダチプロジェクトの本格的な発表の1回目だった。

「1回目を終えた時に実はもう辞めようと思ったんです。金銭的にも厳しかったし、南相馬に行くたびに家族を置いていくわけですし。仕事だって中途半端になって、失うものの方が大きいと思っていました。なにより私自身やり切った思いが強かったんです。それでも子ども達がステージに立った後、『先生、次いつ来てくれるの?来年いつやるの?』って言うから、迷いながらももう1回やろうかってなって。2回目をやるんだったら南相馬で開催して杉並の子達を連れていく、野球チームでやれなかった事を私がやろうって。子ども達のパワーはすごい。ほんとにすごいですよ。」

ずっと「行く人」ではなく、ここからやるよ

「ずっと杉並にいてこれをやっていったら支援になってしまう。支援じゃなくて、やりたいことは南相馬から発信すること。「行く人」ではなく、ここからやるよって。南相馬にこんなに可愛い子ども達がいて、こんなに元気な子達がいてすげーカッコいいでしょ。って私は言いたい。だから音楽事務所も辞めて、2016年11月に住所を移して南相馬に腰を据えました。」

イベントを重ねるたびに周囲に熱は伝わり、生徒も先生も増えていった。

「最初はダンスの先生達にも無料で手伝ってもらっていましたが、何年もボランティアじゃ気持ちが続かないし、先生達も本当の意味で本気にならない。だから親御さんと相談して授業料をもらうようになりました。本気にならなかったら子ども達も上手にならない。子どもって本気の人に反応するので、本気じゃないものを続けているってことはたぶん終わります。子どもが成長して、親が喜び、先生が頑張る。そうやって、ずーっと続いていく。ただ、私が弱くなると全て中途半端になる、覚悟が弱くなる。まぁこれくらいでいいよってなると、それくらいのステージをしちゃう。それは子どもにも親にも伝わってしまいます。結局は、どこまで自分もプロフェッショナルな気持ちでやるかだと思うんですよね。それを突き上げてくれるのはやっぱり子ども達です。」

週の半分を東京で、もう半分を福島で過ごしている狩野さん。住んでいる場所は、南相馬市内の避難された方のお宅をお借りしているそうだ。最初の頃は、家にいると「暇だろ~」と笑いながらいろいろな人が家に上がってきたり、玄関に煮物や野菜が置いてあったりと、地域の人はなかなか放っておいてくれなかった。あとは、大きな家なので夜の風の音が怖かったこと。移住した当初の悩みはそのくらい。

「嫌な事は思いつかないんですよね。でも、良いなと思うところはいっぱいありますよ!まず食べ物もお酒も美味しいし。それから自然もいいですよね。見てもいいし走ってもいいし。人もいい。人がいい。ここに住所を移すこと、すごく悩みましたけど、決定打は人と食べ物でした。仕事しようっていう任務感じゃなくって、ここにいる人と一緒に過ごして何か作り上げたいなって。」

栓を抜いてあげる

狩野さんがトモダチプロジェクトを始めてから8年が過ぎた。関わってきた子ども達にはどんな変化が見られるのだろう。

「ほんとは歌ったり踊ったり、子どもってみんなの前に出て何か表現したいんですよ。だけど、恥ずかしい。特にこの地域はそういった機会も少ないです。だけど、うちの子たちは我慢させていた気持ちを爆発させてステージに出てきてくれます。一度ステージに立った子は栓が抜けたように変わっていきます。結果的に生徒会長になったり、部活の部長になったりリーダーになっていく。教えているのは歌やダンスなんですけど、福島の中に眠っている”本当はこうしたい、こう言いたい”っていうのをポン!って栓を抜いてあげるために、私は来たんじゃないかなって思ってるんです。あとは自分でちゃんと出しなさいよって言いながら。」

私は良い歌を作りたい

ここまで、子ども達の話が多く出てきた。それでも、もっと根っこの部分には自分の好きなことを大切にしている狩野さんがいた。

「もちろん子ども達のことも考えます。でも、それ以上に私は良い歌を作りたいです。自分がかっこよくないとだめだし、自分がよくないとみんなも良くならないと思います。みんなの為に自分が犠牲になるほど辛いことってないじゃないですか。だから私が良い歌を作ってるとか、良い曲を書いているとか、そこかな。どうやったらこの子達が喜ぶのかなって考えて歌を作ります。なんて歌ったらこの子達踊るかなって。」

こう語る背景には自身の想いと困った時の相談相手、南相馬でクリーニング屋を営む社長の言葉があった。

『自分のやる気を失わないためには、必ず自分を満たすことだよ。ギリギリで自分がやるんじゃなくって、一番は自分が誰よりも一番楽しむこと。あなたが南相馬にいる事を楽しんでいる。そこにみんなが集まってるわけだから、必死感が出てくるとみんなできなくなるから、一番楽しんでればいい。』

もちろん、必死なこともギリギリになることもあっただろう。イベントが終わるたびに区切りをつけようとしたが、その都度子ども達に突き動かされレッスンを続けた。今では杉並区と南相馬で交互に大きな発表会を開催し、生徒や関係者は100名以上に増えた。

できるだろうか。続けられるだろうか。子ども達の想いに応えて動き続ける狩野さんは強い人だ。

レッスンを通じて打ち解けた子ども達には”なっぽ”と呼ばれる狩野さん。小さい子には「先生」と呼ばれながら、いまも歌を作り、南相馬を拠点にして東京と往復しながらレッスンを続けている。「いつまで体力持つかなぁ」と笑いながら。

みんなのうた

さぁみんな夢のなかへ
おいで おいで おいで
僕たちの楽園 みんなのうた

コトバにできないこと
たくさんあるよね
だけど君は昨日を
超えてここに居るんだ

さあ みんな夢の中へ
おいで おいで おいで
手作りの楽園 ぼくらのくに

あの日観てた夕日とおんなじ色だね
きっと君は明日を生きるためにここにいるんだ
タンポポの綿毛は風に乗り
遠い場所からトモダチを連れてくるのさ

さあ みんな夢のなかへ
おいで おいで おいで
ずっと続くといいな
僕らの国

さあ みんな夢のなかへ
おいで おいで おいで
笑顔繋いでいこう
ぼくらのくに

ぼくらのゆめ

みんなのうた

(2019/7/1取材)