INTERVIEW

インタビュー

「面白い」の感覚が、行動力の源。楽しみながら、南相馬の今を伝える。

栗原美紀さん

出身地:東京都
勤務先:南相馬観光協会
勤務期間:2019年〜
年齢:45歳

東京で生まれ、南相馬で学生時代を過ごした栗原美紀(くりはら・みき)さん。「閉塞的な田舎を出たかった」との理由から、高校卒業後は単身大阪へ転居。2011年より震災復興のボランティアのために大阪と南相馬を行き来する生活を送る。また、大阪では仕事の傍ら「南相馬市民の生活を伝える」ための写真展やイベントを開催し、2018年まで継続。ニュースを通じて報道される「被災地」ではない南相馬の姿を伝え続けてきた。彼女が活発に活動を続ける理由は「思いのままに、面白いと思ったことをやっているだけ」なのだという。2019年より南相馬にUターンした彼女は、南相馬観光協会での仕事と並行して、今後も個人での活動を続けていく予定だ。言葉の端々からエネルギーが溢れ出る栗原さんのこれまで、そして、これからの展望を伺った。

個人で「南相馬の現在」を発信し続けた大阪時代

学生時代を南相馬で過ごした栗原さん。高校卒業後は「田舎から出たい」と大阪に移り住んだ。東日本震災が起きたのは、長年暮らし続け、すでに“大阪の人”となっていた頃だった。これまで地元に対しては、複雑な思いを持っていたが、震災後の変わり果てた町の姿を見て、大きなショックを受けた。それ以来、南相馬へ帰る回数は増え、大阪に暮らしながらも、現地でボランティアの活動を続けたという。そうして、一時は距離を置いていた南相馬の存在が、栗原さんの中でふたたび大きなものとなっていく。また、大阪から通う中で、これまでは見えていなかった、町の姿が見えてきた。

「テレビで流れる南相馬の姿は、たしかに現状を伝えているものでした。でもそこには、南相馬で暮らす人々の生活が写っていなかったんです」

そう感じた彼女は、自ら写真を撮り、写真展を開くことを思いつく。「被災地」として記録する写真はプロのカメラマンにまかせればいい。南相馬で暮らす人々の姿をスマートフォンで撮影し、その姿を伝えていこう。動機はシンプルだが、その行動の早さは突出していた。

「『南相馬には、今も人が住めるの?』と聞かれたこともありましたね。大阪と南相馬を行き来する中で、見ている景色の落差に驚かされました。そんな中で、私は南相馬の外にいるからこそ伝えられることがあると思ったんです」

そうして栗原さんは関西を中心に写真展の活動を始め、とにかく行動し続けた。南相馬の生活以外にも、相馬地方の文化「相馬野馬追(そうまのまおい)」を伝えるための写真展、甲冑の展示など、他のテーマでもイベントを開催し、2018年まで継続していったという。

南相馬観光協会の発信を強化する起爆剤

2019年「大阪で活動するより、知ってもらえる可能性がある。人が多いところでやるより、地元で発信力を高めたい」という理由から南相馬にUターン。生活の拠点を移し、11月より南相馬観光協会での仕事をスタート。南相馬の市民文化を伝える「野馬追通り銘醸館」の施設管理のほか、今後は観光協会のPR活動にも取り組んでいく。

「まだ働き始めて1ヶ月ですが、もっと南相馬のことを発信していきたいですね。私は大阪で自分からいろいろな場所に足を運び、積極的に営業をかけて、企画を立て、展示を行ってきました。観光協会のつながりを活かせば、絶対にもっとできることが広がるはずなんです」

求められて動くのではなく、自分から動く。そうすることで物事が進むのだと、自身の経験から栗原さんは学んできた。知られていない場所に積極的に営業をかけるなど、失敗を恐れずに行動し続けることが重要だ。経験を生かすことで、もしかすると栗原さんは、観光協会における起爆剤のような役割を果たすのかもしれない。

「万葉姫」コスプレで南相馬をPR

今後は、観光協会で働きながら、個人での活動も引き続き積極的に行っていくつもりだと話す栗原さん。Uターン後、まず最初にスタートさせたのが、合併して南相馬市となる前の旧鹿島町で生み出されたキャラクター「万葉姫」のPRだ。その方法は、なんとコスプレ。もともとはイラストだったキャラクターのコスチュームを自身でデザインし、実家が営む縫製工場の力を借りて製作。南相馬市から正式に万葉姫のコスプレ使用許可を得てPRを始めた(写真で栗原さんが着用しているのが、万葉姫のコスチューム)。

「まだまだ改良しなきゃいけない部分はあるんですが、勝手につくってPRしちゃおうかなって。万葉姫のコスプレをし始めてから、南相馬でもコスプレ好きの人が沢山いるとわかってきたので、どんどん巻きこんでいきたいですね。私は『ちゃんとした大人』らしいふるまいが苦手なので、面白い方向に走っていきたいと思っています(笑)」

今後はSNSなどを通じて支援者を募り、認知度の向上を目指すという。

表現することを恥ずかしがってはいけない

今でこそ、積極的に活動を行う栗原さんだが、もともとは人目を気にする性格だったという。しかし、そんな彼女を変えた二つの出来事があった。一つは24歳の時にインターンシップで訪れたアラスカでの経験だ。

「アラスカで、小学生や中学生を相手に日本文化を教えるインターンシッププログラムに参加したんです。最初は真面目に地球儀を見せたりしながら授業をしてたのですが、知らない土地のことを延々と話しても聞いてもらえないんですよ。授業中に子どもたちが脱走したりして、これじゃいけないなと。そこから頑張って、歌を歌って踊ったり、ジャパニーズクラッカーだよと、おせんべいを食べさせてあげたりしてから、少しずつ話に耳を傾けてもらえるようになりました」

そして、もう一つが大阪でのアーティストとの出会いだ。ライター、音楽家などこれまで興味もなく、接点もなかった「表現」を生業にする人々に触れ、新しい世界への扉が開いたような心持ちだったという。

「彼らとの出会いから学んだのは、他人の目を気にしなくても良いということ。やりたいことをやって誰かに批判されても、羨ましいでしょ?っていう態度でいればいいし、失敗してもネタにしちゃえばいいんです。人は他人のことなんて見ていないんですよ。でも、多くの人は他人の目を気にして自分の考えを表に出せない。みんな、もっと言いたいことはあるはずだし、面白い人だっていっぱいいるはずなんです。それを掘り起こしていきたい。もっと自分を表現しても大丈夫だよって」

目標は、南相馬から「被災地」のイメージを消し去ること

栗原さんがこれまで一貫して行ってきたのは「自分の考えを表現するために、行動する」こと。面白い匂いを嗅ぎとったら、考える前に行動をする。そして、自分自身が楽しみながら人を巻き込んでいく。それが栗原さんのスタイルだ。

「私自身、自分で自分の楽しみをつくっている感覚なんです。大阪時代の活動はほとんど自腹でしたが、それをやるために仕事をしていましたから。失敗も沢山ありましたが、続けたことで生まれた出会いは数え切れないほどあります」

南相馬のことを伝え、より身近に感じてもらえるように、これからも公私問わず活動していきたいという。栗原さんの活動に興味を持った人が、南相馬を訪れる。そして、被災地ではない町の魅力に気づく。そんな未来を見据えている。

「大阪の友人に、私に出会ったことで南相馬のイメージが変わったと言ってもらえたことがありました。彼女に、じゃあ次は私に会いに来なよって伝えたんです。『また栗原が変なことやってるな。ちょっと遊びにいってみるか』って、そう思ってくれれば良いんです。私は南相馬から『被災地』というイメージを無くしたいんです。そのためのきっかけは何でも良い。もっと多くの人に足を運んでもらって、この町の今を知ってほしいですね」

(2019/12/10取材)

  • 取材・執筆:高橋直貴
    撮影:小林茂太