INTERVIEW

インタビュー

記者、政治家、起業家と類い稀な経験から見えた、南相馬に必要なこと。

但野謙介さん

出身地:福島県 
勤務先:株式会社トラストワン(2020年1月まで)
勤務期間:2013年~ 
年齢:37歳

南相馬市出身の但野謙介(ただの・けんすけ)さんは、NHKの記者を務めた後、大手PR会社を経て株式会社Huberを立ち上げ取締役に就任。2011年には、南相馬市議員に当選し、政治の世界に足を踏み入れた。2013年12月には、株式会社トラストワンの取締役に就任し、南相馬を拠点に全国の商業空間へ向けて家具の生産を行っている。報道、政治、起業、会社経営と、37歳にして様々なフィールドで経験を積んできた但野さんだが、これまでのキャリアはどのように選択され、そして今、どんな想いで南相馬で活動しているのだろうか。

ニュースのトップを競うNHKの記者時代

但野さんが大学卒業後、入社したのはNHKだった。記者として、スポーツ、経済、政治など、ジャンルを問わずさまざまな現場で取材に走り回っていたという。少数精鋭の取材チーム、激務の日々が続いた。

「野球選手の田中将大さんの取材、当時社会問題となっていたナマコ密漁の取材、経済番組をつくるために企業の取材と、NHK時代の3年間は、膨大な仕事をハイペースで行っていました。企業が不祥事を起こして倒産したり、あるいは、ニッチな分野で革新的な事業が脚光を浴びたり、事件のニュースを通じて法改正につながったりと、社会の様々な変化を目の当たりにしてきましたね」

しかし、記者は「伝える」ことに徹する仕事。取材対象との間には、越えられない一線がある。全国放送でニュースのトップを飾るという高揚感はありつつも、どこまでいっても傍観者であることへのもどかしさを感じていた。自分の手で、社会に働きかける仕事をしたい。入社して3年、そんな思いが膨らんできた頃、但野さんに転機が訪れた。マスメディアを賑わせ、大きな注目を浴びた、食品偽装事件だ。但野さんは記者として北海道で日々事件を追うことになるが、報道内容に対して疑問を抱くようになる。

「本来は食べ物の信頼回復をどう図るかが大事なのに、当時のニュースは本質から逸れて重箱の隅を突くものばかり。ある時、自分もその報道に加担していると気づいて、思い直したんです。これが毎日徹夜をしてまで自分がやりたかった仕事ではない、もっと有意義な人生があるはずだと」

事件の取材がひと段落したタイミングで、但野さんは会社に辞表を提出。報道合戦の現場を降り、次のステップへと踏み出した。

見通しの立つ人生はつまらない

当時北海道に住んでいた但野さんは、退職後すぐに転職活動を開始。しかし当時はリーマンショックの真っただ中。従業員が数百人、数千人単位でリストラされるような時代、選考が白紙になることも一度や二度ではなかった。そんな中、知人の紹介を受けて外資系のPR会社のへ就職が決まる。同時に、北海道から東京へと移った。

「大手航空会社や、インターネットポータルサイト、流通業者などのPR担当として働きました。一般的なマーケティングPRではなく、企業と社会問題について扱う仕事です。例えば、僕は、企業や政党の危機管理や不祥事対応なども専門にしていました。記者会見のトレーニングや危機管理マニュアルの作成や討論番組に出る政治家のメディアトレーニングを行う業務です。特殊な仕事でしたが、楽しかったですね」

企業の側に立ち、事態を沈静化させる。記者として問題を追求してきた但野さんにとって、メディアの手の内は勝手知ったるものだった。これまでの経験を活かし、PR会社で2年間活躍。しかし、NHK時代と同様、但野さんの心境に変化が訪れた。

「2年間でひと通りの仕事を経験させていただいて、天井が見えてしまったんですよね。このまま続けても、職人として腕を上げていくことはできるけど、想像の範囲を出ることはない。それで幸せなのかなって」

結論がわかっていることに人生を費やすなら、見通しの立たないところに飛び込んでいきたい。そうした思いから、28歳で会社を辞め、独立を決めた。

政治家としてできることは限られている

次に但野さんが選んだフィールド、それは意外にも政治の世界だった。知人からの連絡を受け、地元である南相馬市議員選に出馬するよう説得されると、立候補し、見事当選。しかし、当選した3ヶ月後、東日本大震災が起こる。政治に足を踏み入れたばかりの但野さんにとって、無力さを感じる瞬間でもあった。

「未曾有の大震災が起きて、目の前にこんなに多くの困っている人がいる。でも、助けようと思っても僕は何もできないんですよ。予算を僕がもっているわけではないので、市役所に対して要望を出すことしかできない。役所に掛け合っても、現場の人を動かすこともできない。議員は結局、自分の手一人分しか動かせないんです」

政治家として関われることの限界。大きな壁にぶつかると同時に、政治家としてキャリアを重ねていこうとしていた但野さんの価値観は一変した。

「いずれは、政治家としてステップアップしていくことを考えていたんです。でも、政治家として偉くなっていくより、キャリアを捨ててでも、目の前の人を助けるために汗をかき、手を動かしたいと思った。震災を経て、決定的に人生が変わりましたね」

その後、但野さんはNPOを被災地に呼び込むなど、復興支援事業のサポートに取り組んだ。被災後の生活に困難を抱える発達障害児の学習支援、心理ケアを行う「みなみそうまラーニングセンター」の開設は、そのひとつの成果だ。文字通り自ら汗をかき、チャレンジする人生が始まった。

失敗が成長をつくる

2013年、友人とともに「株式会社Huber」を立ち上げ、「TOMODACHI GUIDE」というサービスをスタート。これはボランティアを通じて生まれる人間関係のように「共通の体験を通じて人が繋がる社会をつくりたい」と、自身の経験から着想したサービスだ。「株式会社Huber」は、神奈川県の鎌倉を拠点に、今も開発を続けている。

また同年より取締役として参画した「株式会社トラストワン」CFO(最高財務責任者)を務めながら、事業の拡大に取り組んでいる。同社の売上高は、但野さんの入社以来3倍、従業員は2倍に成長。経済活動を通じて南相馬に貢献している。「トラストワン」では、マーケティングから営業まで、これまで経験したことのない業務にも積極的に取り組んでいる。その分、自身の成長を感じているという。

「今までに経験したことがないことの連続で失敗だらけですが、自分の可能性は広がっている感覚があります。普通は、失敗しないようにどう調整するかがサラリーマンとして大事だと思うのですが、自分の計算できる範囲のことばかりやっていても成長できない。うちの1歳の子どもを見ていても思うのですが、自分なりに失敗の経験から学んでいいものだよなって。失敗を許容してくれる環境で、チャレンジを続けるのが大事なんですよ。子どもも大人も、失敗を見守って、声をかけてくれる人が身近にいるかいないかで、人生が変わるのだと思います」

南相馬を本当に豊かにする価値あるものを

南相馬の企業で働き、また、南相馬市議として地域を大きな視点から捉えてきた経験を持つ但野さんに「これからの南相馬に必要なことは何か」と、質問を投げかけた。その答えは「この場所にこれまでなかった価値を持ち込むこと」だという。政治だけでは何も変わらない。この町に住む人が経済活動を営み、価値を増幅させ、この町に住む人を増やしていくことだという。

「これから移住して地域に貢献したいと思っている方は、ぜひこの場所になかったものを持ち込んで欲しいですね。県外からこの町に来て、すでに南相馬にある商売を始めたとしても、もともとあったパイを奪うことにしかならない。新しい価値あることを生み出し、地域の外からお金が入るような仕組みをつくる。それができなければ、本当に地域を豊かにすることはできません」

現在、但野さんは「一般社団法人パイオニズム」の理事を担当し、起業家支援プログラムを行うコワーキングスペース「パイオニア・ヴィレッジ」の運営に携わっている。南相馬の課題を解決していくために、「企てる人」と「育てる人」を繋ぎ、新しい価値を創出することが目的だ。

「新しい価値を生み出す上で、誰かのつくりたい、表現したいという思いは重要です。パイオニア・ヴィレッジでは何かを実現したいという『思いの柱』がある人のサポートをしていきたいと思っています。そしていつか、企業なのか、サービスなのか、その形はわかりませんが、ここから多くの方にしっかりと、思いを届けられるようにしたいですね」

(2019/12/10取材)