INTERVIEW

インタビュー

24歳の元プロ野球選手が地元の富岡町で選んだ第二のフィールド

畠山侑也さん

出身地:福島県双葉郡富岡町
勤務先:富岡町役場
勤務期間:2020年〜
年齢:24歳

2019年10月、ファンから惜しまれつつも、1人の若きプロ野球選手が退団を決めた。福島の復興を担う球団の選手として活躍した、双葉郡富岡町の出身の畠山侑也(はたけやま・ゆうや)さんだ。彼は中学時代に東日本大震災を経験し避難指示の対象となった富岡町から家族と共にいわき市に避難。千葉県の大学を卒業後、2018年よりプロ野球独立リーグの福島レッドホープスに入団し、内野手として活躍した。しかし、1年余りのプロ野球選手生活の末、右肘の怪我のため野球選手生命を絶たれることとなった。

彼は現在、富岡町役場で臨時職員として勤務をしている。「野球も今の仕事も人のために全力を尽くすことは変わりません」若くして第二の人生を歩み始めた彼は、もう前を向いている。退団後から現在に至るまでの胸の内、富岡町役場での新しい仕事、そして選手時代から強く持ち続けていた復興への思いを聞いた。

野球生命を絶たれた青年が、第二の人生を踏み出すまで

野球一筋の人生を送ってきた1人の青年には残酷すぎる現実が待ち受けていた。千葉経済大学を卒業後、地元球団である福島レッドホープスからドラフト指名を受け入団。野球選手としては、福島の地を盛り上げる存在として、活躍が期待されていた。しかし、運命はあまりにも残酷すぎた。利き腕である右肘が悲鳴をあげたのだ。ボールをまともに投げることはおろか、日常生活にも支障をきたすほどの大怪我だった。畠山さんは悩んだ末、退団の意向を球団に伝えた。1年余りの選手生活は短すぎるものだった。

野球一家に生まれ、幼少期より野球一筋の生活だった。念願だったプロ野球を諦めて後悔しないかと葛藤は続いた。野球の無い人生について考える日がくるなんて想像もしていなかった。しかし、企業への就業経験がない自分がどんな仕事なら出来るのかもわからない。そんな胸の内を富岡町役場で働く少年野球時代からの先輩に打ち明けた。結果的に、この相談が畠山さんの第二の人生の第一歩目となる。

「富岡町役場で働かないか?まずは臨時職員からのスタートになるが、2020年の採用試験に合格すれば、2021年から正職員としての採用になる。」そうした先輩からの提案に、畠山さんはすぐには返事をすることは出来なかった。というのも、まだその時点では一般企業に就職し、社会人野球に進むことも考えていたからだ。

しかし、2019年の11月に右肘の手術を終えた彼は、やはり今まで通り野球を続けることができないことを悟った。思うように動かなくなってしまった右肘、地元への思い、さまざまなものを天秤にかけた末、新しいフィールドに進むことを決意した。

フィールドは変わっても「誰かのために」という思いは変わらない

2020年の春から富岡町の役場で勤務している畠山さんの仕事は広報係として町へ取材に出向き、動画を撮影することだ。撮影した動画は動画サイトYouTubeの富岡町公式チャンネルに掲載されている。新型コロナウイルスの影響で軒並みイベントが中止になっていることもあり、町内の人だけでなく、町外に避難している人にとっても貴重な情報源になっている。学校行事に関しても保護者の参加人数が制限されるため、子どもの晴れ姿を見れずに残念がる人も多い。そのため、多くの方へ子ども達の様子を伝えてほしいと学校からの撮影依頼が多いという。

取材の途中、仕事には慣れたかと質問を投げかけると「電話対応が苦手で、まだまだ慣れないですね」と苦笑いを浮かべた。それまでのしっかりとした受け答えとはうってかわって、24歳の新社会人の顔だ。それでも、丁寧に指導をしてくれる上司の元、少しずつ自信がついてきたそうだ。

「優しい先輩の指導もあって最近は少し慣れてきました。これは富岡の一番の魅力だと思いますが、本当に優しい人が多い。野球はファンを喜ばせたい思いでやってきた。役場でも同様に、この町に住む人のためを思って働いています。選手時代は周囲の方々にサポートしてもらうことが多かったのですが、いまは逆です。誰かのために働くことがやりがいになっています」

臨時職員として働いている畠山さんは、業務終了後に試験勉強に勤しんでいたという。そんな勉強漬けの日々の甲斐あって晴れて2020年9月の採用試験に合格。来年からは正式に職員としての勤務が決まった。

「結果を出すために、目標から逆算して努力していくことは野球選手時代の経験から学んだこと。今までの経験がしっかり糧になっているようで、自信につながりました」

子どもの笑い声が響く町を取り戻したい

中学2年生の時に震災を経験した畠山さんは選手時代から復興支援活動に人一倍熱心に取り組んでいた。町に対する思いは強い。震災前、スポーツが盛んだった富岡町に多くの人が訪れ、賑わいのある姿が戻ってくればと願う。

「レッドホープス時代は試合後に子ども向けの野球教室、福祉施設での体操教室、郡山のうねめまつりへの参加など、球団をあげて地域の活動に取り組んでいました。復興の象徴となるチームであれるよう、そうした地域との関わりは大事にしようと監督からは常に言われていました。その言葉は今も大事にしています」

町内には「総合グラウンド」や「ふれあいドーム」といったスポーツ施設がある。畠山さんが幼少期、ひたむきにボールを追いかけた場所だ。今は、子どもたちの賑やかな姿は見ることが出来ないが、畠山さんは町中で子どもたちが元気に遊んでいる風景を取り戻したいと話す。子どもが安心して暮らせる町は、誰もが安心して暮らせる町だからだ。

「選手時代、地元の新聞が僕のことを取り上げてくれたことがありました。県外に避難した友人達にも活躍が伝わり、わざわざ試合を見に来てくれた人もいたんです。

今度は僕が頑張って、この町に人が戻るきっかけをつくりたい。近い将来、町内に大きな産業団地を建設する計画があります。そこを起点に新しい仕事が生まれれば、きっと実現するはずです。その時は、富岡の綺麗な桜を、この町を訪れる方に案内したいですね」

フィールドは変わっても、彼の一途な思いは変わらず燃え続けている。

(2020/11/18取材)