INTERVIEW

インタビュー

戻ってきた広野町で、多世代と地域をつくっていく

青木裕介さん

出身地 福島県広野町
勤務先 ひろのパソコン教室、多世代交流スペースぷらっとあっと
勤務地 広野町
勤務期間 2018年4月~

JR常磐線広野駅から徒歩3分、福島県立ふたば未来学園中学・高等学校(以下、ふたば未来学園)の通学路に、広野町出身の青木裕介さんの活動拠点「多世代交流スペースぷらっとあっと」はある。町の人が「ぷらっと」立ち寄れる居場所にと、青木さんらが2021年に立ち上げた。「広野町には、目的なく集まれる場所がなかったんです。おじいちゃんおばあちゃんから、その子ども、孫、そして学生たちが、自由に利用できる空間となってきていてうれしく思います」と笑顔を見せた。

広野生まれ、広野育ち でも地元に愛着はなかった!?

青木さんは、広野町に生まれ、広野幼稚園・広野小学校・広野中学校に通った、生粋の広野っ子。青木さんが高校生だった当時は、町内に高校が無かったため、隣市のいわき市の高校に進学するが、卒業までは広野町で暮らした。 「でもその頃はそれが当たり前だっただけで、特に広野に思い入れはなかったんです。意識が変わったのは震災後ですね」と青木さん。

震災の翌年2012年から「東北に春を告げるまち」というフェイスブックページ(開設当時のページ名は「広野大好きっ子」)を、町の公式ページより早く個人で立ち上げ、非公式とうたいながらも、広野町の身近できめ細かい情報発信を行ったり、避難先から広野町に通い、朝カフェイベントを開いたりしていた。青木さんを突き動かしたものはなんだったのだろうか。

破天荒な社会人時代、震災で避難した会津若松市での「出会い」

若い頃を振り返ると「かなり破天荒でしたね」と笑う青木さん。学生時代から絵を描くこととコンピューターが好きだったことから、仙台市のCGなどを学ぶ専門学校に入学が決まっていたのに、直前に現在の奥さんと駆け落ちをし、就職を決めてしまったり、3年で工場の立ち上げを任されるも上司とけんかして辞めてしまい、夫婦で貧困生活を送ることになってしまったり。当時は「とにかく生きることに必死だった」という青木さんだが、不思議と「なんとかなる」という自信はあったそう。その後、初めて車を買ったディーラーの営業の求人を見つけ、未経験ながら即応募。青木さんの車の販売担当者が店長になっていたことなど強運が重なって採用され、22歳から8年間、自動車メーカー・ホンダ技研の代理店の営業として南相馬市原町、いわき市で働いた。

2011年3月11日は、いわき市内でお客さんの車を預かって営業所に戻る途中で被災した。当時の勤務先では、災害マニュアルは整っていたため、青木さんは当日中に自宅に戻ることができた。「水が必要だなと思って、自動販売機が多く設置されている、普段とは違う道を通って帰ったんです。みんな考えることは一緒で、自動販売機は全部売り切れだったんですけど、普段の道(国道6号線)を通って帰っていたら、津波に遭っていた時間帯だったんです。津波の想定は全くなかったので、命拾いしたと後から思いました」と青木さん。現在ふたば未来学園がある、町の高台に避難して家族と合流。翌日、親戚のいるいわき市四倉へ。いとこが東京電力福島第一原子力発電所に勤務していたため、原発が危ないという情報が入り、家族だけでひたすら西へ車を走らせ、ガソリンが尽きた場所が会津若松市だった。

広野町は、東京電力福島第一原子力発電所から20キロ以上離れていたため、町として「避難指示」は発令されなかった。会津若松市は大熊町の避難先として指定されたため、広野町から避難した青木さんにはなかなかふるさとの情報が入って来なかった。それでも会津の法人や同じ会津に避難していた親戚などの助けで、生活に困窮することなく過ごすことができた。2012年に広野町は帰還できる状況になったが、お世話になった会津若松市に恩返しがしたいと、青木さんは少なくとも1年間は会津で働くことを決めた。PCのスキルを活かし、職業訓練校「株式会社 ミンナノチカラ」にインストラクターとして就職する。

会津に避難している間は交流関係を広めようと、異業種交流会などに積極的に参加した。そこでの会津の人たちとの会話をきっかけに、青木さんは広野町へ思いを向けることとなった。「会津の人たちって、自分たちの町のPRがすごいんです。会津、いいところだろって、みんながうれしそうに話すんですね。で、広野町ってどんなところ?って振られたときに何も話せない自分に気づいて……。この出会いはとても大きかったです」。

2011~12年当時、双葉郡はほとんどの町村が全町避難を余儀なくされており、避難指示が出ていなかった広野町であっても、会津まで広野町の情報は届いていなかった。自分と同じように情報が届かなくて困っている人がいるのではという思いと、今の広野町を知って、伝えたいという思いを強めた青木さんは、いわき市の仮設住宅に避難している祖父母を訪ねがてら、広野町にも頻繁に立ち寄り、フェイスブックによる情報発信を始めた。多い時には月に2~3回、少なくとも月に1回は会津若松市から広野町に通い、再開した事業者や飲食店に話を聞いたり、町の復旧の様子を写真に収めたりして、広野町を外に届ける活動を続けた。

2013年に青木さんが撮影した「東北に春を告げるまち」フェイスブックページカバー写真

広野町に戻るきっかけ 町を思う人とのつながり

会津若松市に住みながら広野町に通っていた青木さんだが、就職した先でセンター長となってからは、広野町に足を運ぶ頻度も下がっていった。同じ時期、広野町で「広野わいわいプロジェクト」というNPO法人や「居酒屋 元気百倍」など、地元の復興のために奮闘する人たちの存在が耳に届くようになる。そんな広野町のキーパーソンとフェイスブックでつながっていくうちに、地元を活性化させたいと思うならやはり地元に住まないと、という思いが大きくなっていった。青木さんが広野町で開催した「朝カフェの会」に参加した、広野わいわいプロジェクト事務局長の磯辺吉彦さんも青木さんの背中を押した。「広野に戻ってくるなら、広野に仕事を用意するから」と、会津まで会いに来てくれたのだ。また、いわき市出身ながら広野町で働きたいと地域おこし協力隊となった大場美奈さんとの出会いも重なった。地元のために働きたいという思い、そして協力者も得た青木さんは、会津での7年間の避難生活を終え、2018年に広野町に帰町することとなった。

磯辺さん(左)、大場さん(中央)と、「ぷらっとあっと」で

なりわいと場づくりを、若者たちとともに

言葉通り、磯辺さんは青木さんにパソコン講師の仕事を用意してくれていた。公民館などで主に年配の方にパソコンやスマートフォンの操作を教えるほか、出張サポートも始めた。そうすると、年配の方だけでなく、子どもにもパソコンを教えて欲しいというニーズが高まり、最初は町内の古民家に、その後は「ぷらっとあっと」内に、パソコン教室を開いた。「教室を開いたのは、『集まれる場所』が必要だと思ったからです。磯辺さんも、地域おこし協力隊の大場さんも『場づくりをしたい』という共通の思いを持っていました。そこから『ぷらっとあっと』の構想が始まりました」。

2018年にコンセプトづくり、場所探しから始まり、その過程もフェイスブックで発信していった「ぷらっとあっと」は、地元、特に広野町にあるふたば未来学園高校の生徒たちとともに活動することが多くなっていった。 入口のカウンターや「ぷらっとあっと」のロゴのイメージカラーは、当時通っていた高校生たちの提案によるものだ。また、カフェのようなカウンターで勉強をしたいという高校生たちの思いに応えるべく、磯辺さんが日曜大工に励み、青木さんや大場さんはカフェ風の椅子や家具の調達に奔走した。そうすることで「ぷらっとあっと」は「自分たちの居場所」となり、コンセプトの通り「ぷらっと」訪れる人が増えていく。「学生たちの発想から得られるものって、すごく大きいんです。広野町にいるからこそ、自然と学生たちと触れ合える時間が増えます。大人になってからの学びの時間は、本当に大切ですね」と青木さんは目を細める。

自身の生業としては、パソコン教室と出張サポート、それから帰町直後は、会津時代から行っていたグーグルストリートビューの撮影収入も大きかったという。現在は、学生たちのパソコン教室で、小学校~高校で必修となる「プログラミング教育」も行う。天然パーマの髪型から「もじゃ先生」と慕われる青木さんは、ただ技術を学ぶのではなく「自分で考える力」をふるさと・広野町で身に付けて欲しいと願っている。「収益としては大きくないですが、人と人との密度が濃い中で生活しながら、自身が地域に役立っているという実感を持てることはやりがいにつながります。学生ともおじいちゃんおばあちゃんとも、幸せを感じながら仕事をしています」とはにかんだ。

パソコン教室も含めてIT関連の仕事はほかにやっている人が少ないことで、そういった分野で新しく起業したり、事業をつくりやすい地域であるとも感じているという。「広野町は『復興』というフェーズは過ぎていると思うので、収益を確保するのに最初はハードルが高いかもしれませんが、周りの人も応援してくれますし、『人』を通して成長していきたい、若者とともに事業を起こしたいという人にはとても良い環境だと思います」と笑顔を見せる。

「ぷらっと」立ち寄った場所に、素敵な大人と学生たちが集っている広野町は、子どもたちにとっても大人たちにとっても、またよそから来た人たちにとっても、かけがえのない「居場所」になっていく予感を感じさせた。