INTERVIEW

インタビュー

新しい風を吹かせて地図に残る仕事を 浪江町の建設会社「泉田組」の思い

株式会社 泉田組

常務取締役 泉田 裕章さん

「震災のことを知らなくてもいいんです。この福島県浜通りに来てくれた人たちに新しい風を吹かせてもらって、どのように変わっていくのか。それがこれからのこの地域の未来の姿だと思います」と、浪江町に本社を置く建設会社「泉田組」の泉田裕章さんはきっぱりと言いました。
浪江町に創業して約70年、地元に根付いて仕事をしてきた、泉田組の現在の思いを紐解きます。

浪江町と南相馬市、2ヶ所の拠点で「まちづくり」

1954年に浪江町で創業した泉田組は、1964年に株式会社に。土木工事、建築工事、そして住宅工事を手がける建設会社です。浪江町の伝統工芸品である大堀相馬焼の物産館「陶芸の杜おおぼり」や町立請戸小学校の体育館などを手がけ、町のインフラ建設に欠かせない役割を担ってきた泉田組。

東日本大震災後は、公共道路や河川の復旧工事、仮設住宅の建設など、緊急期から復旧期に必要な工事を担い、2017年3月に浪江町の避難指示が解除されてからは、町立なみえ創生小中学校のクラブハウス、同じく町立の交流施設「ふれあいセンターなみえ」などの建設や、道の駅なみえや産業団地の造成工事など、町の公共工事を行っています。

現在は、本社を置く浪江町と、震災後に設置された南相馬市原町区の営業所の2ヶ所で業務を行っており、浪江町には工事の現場監督や作業職員が、南相馬市には総務や営業を担当する社員が勤務しています。

泉田組 南相馬営業所

町を守る 町をつくる

浪江町は、東日本大震災と福島第一原子力発電所事故(以下、原発事故)により全町民が避難を余儀なくされ、2017年3月末まで6年間、町に暮らすことができませんでした。

町の公共インフラを担う泉田組は、東日本大震災が発生した2011年3月11日当日も、社員やその家族の安否が確認できたあとすぐに、余震の中、浪江町内の道路や河川で復旧が必要な場所を確認するためパトロールし、その夜には町役場と打ち合わせをしていたと言います。

しかし翌日の朝、道路の補修に出動しようとした矢先、浪江町全体に避難指示が発令されました。「とにかく、渋滞で車が全く進まなかったことはすごくよく覚えていますね」と、泉田さん。従業員はみなバラバラの場所に避難せざるを得ず、泉田家は福島市を経て、新潟県へ避難しました。

慣れない雪国で避難生活を送るのもつかの間、泉田組は福島県建設協会の依頼を受け、4月には浪江町に戻ることになります。「自衛隊による行方不明者の捜索が行き詰まり、重機で家屋や建物のがれきを撤去しながら捜索をしたいという依頼でした」。泉田さんらは、一家とオペレーターを担当する従業員を1人避難先から呼び寄せ、4~5人で浪江町に戻り、がれきの撤去を行いながら、自衛隊のサポートを行いました。

2011年4月20日には、浪江町を含む原発から20キロ圏内が警戒区域に指定され、許可証なしには立ち入りができなくなりました。泉田組は区域設定と同時に許可証を取得、同年の夏ごろまで、町内での緊急復旧作業を継続したそうです。

その頃には、避難指示区域に含まれなかった隣の南相馬市内で仮設住宅の建設が始まったため、その工事にも従事。南相馬市内に事務所も構えました。

増える事業 従業員の健康を守る「泉田デラックス」

緊急期が過ぎ、浪江町の(一部)避難指示解除が2017年3月に決まると、公共事業は更に増えていきました。しかし、6年にわたる避難生活の中で、家族の事情で泉田組の仕事を離れざるを得なかった社員も多く、残った従業員もほとんどが単身赴任でした。「みんな初めての単身赴任だったので、食生活が乱れていました。好きなものや出来合いの惣菜ばかり食べてしまって、健康を害する社員が出てしまったのです」

そんな社員たちの健康管理ができる体制を整えたいと、泉田組が行っているのが「泉田デラックス」という取り組みです。健康診断を利用し、体脂肪を削減していくのです。毎年12月に、昨年からどのくらい体脂肪を削減できたかを申告。レース形式で争い、1位の賞金はなんと50万円!「ただ、無理なダイエットは禁物です。みんな秋になると、そわそわし出しますね。実は私も、1度1位を取ったことがあるんですよ」と泉田さん。

管理職、一般職問わず、社員全員が、楽しみながら真剣に健康に向き合う取り組みは10年以上続いています。ほかにも、禁煙した社員にも賞金が与えられたりと、建設、工事業という体力と精神力が必要な職場だからこそ、社員の健康管理には常に気を配っているそうです。

また、未だ震災前の社員数に戻っていないため、求人も積極的に行っています。建設業、工事等の経験者はもちろんのこと、未経験者でも対応できる業務は多くあり、1級建築士など、資格取得に対する補助も行っています。

南相馬事務所のすぐ後ろには、冷蔵庫、洗濯機、電子レンジ、テレビなど生活用品が一式揃っているアパート形式の単身寮も整備。現在、泉田組以外でも多くの復興従事者が滞在しているこの地域では、移住者が自力で手ごろな価格の住居を探すのが難しい状況です。そんな中、仕事と住む場所を同時に確保できるのは、非常に有難い待遇と言えます。

新しい風が吹いて、新しい町ができる

最後に泉田さんに、これまでとこれからのまちづくりについて聞きました。「少し湿っぽいことを言ってしまうと、今浪江町で働いていても、街中や飲食店で同級生や近所の人とばったり会うようなことは無くなってしまいました。これは本当に悔しいことです」

浪江町では年に1回、秋に「十日市祭り」という大きなお祭りが行われていて、震災後も避難指示解除に合わせて復活し、毎年開催されるようになりました。十日市祭りには、避難先から多くの浪江町民が集まり、あちこちで再会の声が響き、屋台やステージなども非常ににぎわいます。「そういうにぎわいが日常になるように、店舗や事業が増えたらと思いますね。道の駅なみえや交流施設のふれあいセンター、浪江駅前の再開発や産業団地の建設と、町が発展の準備を整えてくれているのを感じるので、会社も人も、ともに成長して行きたいです」

今後、泉田組に入社する、特に若い人、浪江町から離れた場所から就職する人たちは、震災のことや地域の成り立ちなど、知らないことの方が多くなります。そのことについて言及したところ、返ってきたのが冒頭の言葉でした。

「震災や地域のことを、わからなくてもいいんです。稼ぐためとか、どんなきっかけでもこの浜通りに来てもらって、新しい風を吹かせてもらえば、地域に面白いことが起こると思うんです」と泉田さん。

「建設業って『地図に残る仕事』なんです。震災後、従業員が大きく減ってしまいましたが、仕事は増えています。浪江町は今、新しくなにかやるのに適した場所になってると思うので、ぜひ挑戦しに来て欲しいですね」晴れ晴れとした笑顔に、今後の浪江町、浜通りへの期待が感じられました。