INTERVIEW

インタビュー

ダメだと思った時にこそ支えられた。楢葉町の「田んぼアート」で日本一を目指して。

市川英樹さん

出身地:愛知県
勤務先:地域おこし協力隊
勤務期間:2019年〜
年齢:48歳

「福島田んぼアートプロジェクト」実行委員長、市川英樹(いちかわ・ひでき)さんは、福島第一原子力発電所事故の後、廃炉作業の仕事をきっかけに初めて福島を訪れた。約1年間働いた後、移住を決心し、いわき市へ。そして、2015年に「田んぼアート」のプロジェクトをスタートさせ、現在は楢葉町を中心に活動している。多くの支援のもとプロジェクトを進めているという市川さんは、自身を「福島一、運のいい人間」と語る。市川さんは、なぜ田んぼアートに取り組むのか?その思いを聞いた。

SNSを通じて周りの人に助けてもらった

「これからFacebookでどんどんライブ配信をしていこうと思ってるんだよ。Youtuberみたいにさ。とにかく面白いことをやって、どんどん発信していかなきゃね」

取材の席に着くと同時に、まるで言葉があふれ出てくるかのように、市川さんは自身の活動について話し始めた。そんな市川さんの手元には、つねにスマートフォンがある。町を歩いていて、発信できる「ネタ」を見つければカメラを向け、すぐさまFacebookに投稿。その慣れた手つきに驚かされる。2014年に原発作業員として福島に訪れた当初は、Facebookの利用はしていなかったが、「福島田んぼアートプロジェクト」の活動を発信するために利用し始めたのだという。

「発信しているとね、もうダメかなと思った時に協力してくれる人が見つかるんです。これ(Facebook)を通じて助けてもらったことは数え切れないですね」

多くの人に支えられながら、田んぼアートの活動は5年目に突入。SNSを駆使し、規模が拡大してきたという市川さんの活動はどのようなものだったのだろうか?

移住のきっかけは福島第一原発での廃炉作業

市川さんは2014年6月に福島第一原発の廃炉作業員として広野町に移り住んだ。食事付き、住み込みの作業で日給3万円。1日あたりの作業時間は2時間ほど。そんな条件のもと、約1年間働いた。その後は、廃炉作業の仕事を辞め、そのまま福島に残り、一時は、不動産を始めようと宅地建物取引士の資格を取得したものの、思うようにはいかず、もう一度作業員の仕事に就いた。

復帰後に担当したのは福島第一原発、一号機内の瓦礫撤去作業だ。当時は、とにかく安全に作業することを心がけ、現場の工程を改善していった。その成果が実り、安全への貢献に対する表彰を、約半年の間に3回も受けたという。「たったひとつのボルトをつけてくるとか、なんてことない仕事なんだけど」。市川さんは当時を振り返る。

「防護服とかっぱをそれぞれ二枚ずつ着込んで、その上からタングステンベストを着て原発の中に入る。それでも放射能はすごい怖いんだよ。規模は違うけどさ、自分の身を呈して高線量の仕事に関わるのはある意味、特攻隊みたいなモノなんだよね。半年間やったけど、30mSv浴びちゃったから、規定の被曝上限に達して辞めることになりました」

福島のために何かできることはないか、そう考えて原発作業員として働いてきた市川さんだったが、やむなくその仕事を断たれることになる。

「ハンマーで頭を打たれた」田んぼアートとの出会い

田んぼアートとの出会いは、廃炉作業員の仕事を辞め、福島の課題解決を目的としたプロジェクト「ふくしま復興塾」に参加しながら、今後の身の振り方を考えていた時のこと。青森県の田舎館村へ足を運び、初めて見た田んぼアートの作品に、衝撃を受けた。市川さんいわく「ハンマーで頭をがーんと叩かれたような感覚」だったという。これを浜通りでやったら盛り上がる。日本一でかい田んぼアートをやれば絶対成功するはずだと、田んぼアートに力を注ぎ込むことを決めた。しかし、決めたはいいものの、何から手をつけていいのかもわからない。最初は周囲から冷ややかな目線が向けられたのだという。

「おたく田んぼ持ってるの?、苗植えたことはあるの?、そんなことをみんなに聞かれましたね。どちらもないと答えれば、じゃあ無理だよ、そんな簡単じゃないよってね」

「何が大変かもわからない状態」からのスタート。初めてのことの連続で苦労もあったが、先入観を持っていなかったからこそ、大胆にアクションを起こすことができた。

クラウドファンディングで目標額150万円を達成

市川さん個人によるSNSでの情報発信に加え、田んぼアートの実現を大きく後押ししたのがクラウドファンディングだ。単に資金を集めるだけではなく、プロジェクトを知ってもらうための宣伝の効果を考えると「やらない手はなかった」という。

「クラウドファンディングは、このプロジェクトや僕の人となりについて広めていくのに適してるなって思ったんですよ。プラットフォームの担当の方には100万円以上を集めるのは難しいと言われたけど、田んぼアートでファンディングしたことのある人間なんてこれまでにいなかった。じゃあ、結果は誰もわからないじゃないかって思ってね。面白いことはみんな応援してくれるはずだと信じてスタートさせました」

その結果、目標金額150万円を上回る、約180万円もの支援が集まった。「本当は300万円を目指していたんだけどね」と市川さんは冗談交じりに振り返るが、はじめて多くの人に想いが伝わった瞬間だった。

「誰もやったことがない挑戦だったから、やっぱりみんながワクワクしてくれたんじゃないかな。今では政治家の方々も応援してくれている。そんなつもりじゃないけど、『まちづくり』なんて言われることもありますよ。私としては、福島のためになれば、どんな方法でもいいんですけどね」

2020年のオリンピック。田んぼアートで世界へメッセージを発信したい

田んぼアートのスタートを成功させ、毎年順調に継続してきた市川さんだが、道のりは決して平坦ではなかったという。毎年田んぼアートを続ける中で運営資金が底を尽きかけた時もあった。自分の活動に意味はあるのかと自問自答した夜も幾度となく経験した。しかしそんな時にも、市川さんを支えてくれたのは、周りの人々だった。自身を「福島一、運のいい人間」と市川さんが語る理由は、まさにここにある。

「苦しい時もありましたが、その度に、偶然電話をかけてきてくれるような人たちがいます。そういう機会に恵まれているからこそ、なんとかなる。その人たちに報いるためにも、しっかりお金を生み出す事業になるよう取り組んでいきたい。それに私は移住者だから、福島の人たちに絶対に迷惑をかけたくないんです。あの人を信じて損したとは思ってほしくない。だから、田んぼアートを成功させないといけないなと」

2019年の一年間で、市川さんは3ヶ所で田んぼアートを実現させた。2020年は、ラグビーW杯での盛り上がりをきっかけに全国10ヶ所以上で行われてきた「田んぼラグビー」を福島でも開催するべく企画を進めているそうだ。実現すれば、東北初の開催となる。2020年は勝負の年だと、市川さんは意気込む。

「2020年は東京五輪が開催される特別な年。『復興五輪』と言われるぐらいですから、福島からメッセージを発信していかないといけないと思ってます。楽しみにしていてください!」

話を伺った後、市川さんは楢葉町にある「田んぼラグビー」の会場となる予定の土地を案内してくれた。まだまっさらなこの場所に、どんな景色を描き出すのだろうか。今後もFacebookを通じて発信していくという市川さんの活動から、目が離せない。

(2019/12/11取材)

  • 取材:高橋直貴、宗形悠希
    執筆:高橋直貴