INTERVIEW
インタビュー

灯が消えた町に、再び活気を。双葉町の老舗「伊達屋」が 守りつなげたい未来とは(前編)
株式会社 伊達屋
代表取締役 吉田 知成 さん
福島県双葉町。国道6号線沿いに立つ「伊達屋」は、2017年6月、まだ誰も住むことができない双葉町でガソリンスタンドの営業を再開させました。
「正直、もう双葉町には戻れないんじゃないかと思っていました。ただ、故郷の復興のためにできることがあるなら、自分一人でもやろうと思ったんです」
伊達屋5代目、代表取締役の吉田知成さんは当時を振り返りこう話します。古くから燃料屋として町を支えてきた老舗は、震災後の双葉町の復興にも尽力してきました。
双葉町を支え続けてきた「伊達屋」
伊達屋の創業は、明治時代にまでさかのぼります。木や炭、練炭などの燃料を扱い、1960年代になって福島第一原子力発電所の建設が始まると、ガソリンスタンドを開設しました。
JR常磐線双葉駅前の住宅兼店舗では、ガス器具やタバコの販売を行い、その一角ではファストフード店「ペンギン」を営むなど、双葉町民の生活を支えてきました。
平穏な生活を一変させたのは2011年の東日本大震災です。長く町民に親しまれてきたガソリンスタンドでは、夜通し避難車両への給油を続けました。
「奇跡的にスタンドに電気がついて、前日に地下タンクを満タンにしていたおかげで十分な燃料が確保できていたそうなんです。道路は避難する車で大混乱。夜が明けても給油の列が途切れることはありませんでした」
震災翌日には、原子力発電所の事故による避難指示が発令。吉田さんの父と義兄は「避難するのであれば、燃料を持って避難しよう」と、配達用のタンクローリーに可能な限り燃料を詰め込み、川俣町の避難所へ向かいました。 道中では、燃料切れで立ち往生している車両に何台も会い、その度に給油を行ったそうです。避難所でも燃料の供給は続き、その後は支援用の車両としてタンクローリーを提供。地域のライフラインを守り抜いてきました。
いつか家業を継ぐために
「震災当時、僕は車の販売の仕事をしていて、東京のオフィスにいました。テレビから流れる映像を見て、急いでスタンドの非常用電話にかけ父に連絡を取りました。いてもたってもいられず、気が気じゃなかったですね」
伊達屋を営む商売一家に生まれた吉田さんは、子供時代から時間が空くといつも店の手伝いをしていました。いつかは家業を継ぐという意識を持ち、高校卒業後は上京して大学に進学。そのまま東京で就職し、家業に役立つように石油関係や自動車販売の仕事を選びました。
結婚して子どもも生まれ、2012年には家も購入。故郷には、正直もう戻れないと思っていたそうです。そんな吉田さんが双葉町に一人で戻り、家業を継ぐ決断に至るまで、どれほどの葛藤があったのでしょう。
故郷の復興のための決断
「きっかけは、同級生の存在です。彼は、震災後に大企業を辞めていわき市に戻り、一人で震災復興のための会社を立ち上げていました。そんな彼から、現場で深刻な燃料不足が起きていることを聞いたのです」
当時、復興・復旧のために被災地では多くのダンプカーや重機が稼働していました。しかし、双葉町の避難指示区域内に営業しているガソリンスタンドはなく、燃料を補給できる場所がありませんでした。燃料がなければ、復興工事が進みません。とはいえ、町の避難指示は解除はされておらず、家族を連れて戻れるような状況ではありませんでした。家業を継ぐために、家族を置いてまで行くべきなのだろうか……。
同じころ、父のもとには町からガソリンスタンドの営業を再開してほしいという打診が来ていました。町内のスタンドは被害が深刻で、唯一、震災当日から給油を継続できた伊達屋に白羽の矢が立ったのです。しかし、年齢のこともあって父はなかなか決心がつきませんでした。吉田さんは自分がやるべきなのではと思いつつ決めかねていました。
「故郷の復興のために、一緒にやらないか?」
そんなとき、同級生の言葉が決断できずにいた吉田さんの心を後押ししました。
「いずれは家業を継がなければという気持ちでいました。そのタイミングが今なのかもしれないと思えたんです」
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取材日:2024年11月
取材、執筆:奥村サヤ
写真、コーディネート:中村幸稚