INTERVIEW

インタビュー

食、音楽、居場所で地域の繋がりをつくる 「Kawamata-BASE」に込められた想い(前篇)

株式会社 Kawamata-BASE

代表取締役  高野樹さん

福島県北部に位置し、県庁所在地である福島市と隣接する川俣町は、伝統的な絹産業や地鶏、豊かな文化と自然があふれる町です。

そんな川俣町の中心部に2024年8月、複合施設「Kawamata-BASE(かわまたベース)」がオープンしました。カフェ&バー、コワーキングスペース、音楽スタジオを備えたKawamata-BASEは、オープンからわずか1ヶ月で地域の新たな交流拠点として注目を集めています。「大好きな川俣町を盛り上げていきたい」と話す代表の高野樹さんに、Kawamata-BASEを立ち上げた経緯や町への想いを伺いました。

川俣町の新たな交流拠点「Kawamata-BASE」

* Kawamata-BASEの外観。空き物件だったビルを高野さんと仲間たちでDIYをしながら改装した

Kawamata-BASEは、レトロな面影が残る川俣町の商店街にあります。3階建てのビルには、1階にカフェ&バー、2階にコワーキングスペース、音楽スタジオがあり、町の交流拠点として新たな流れを生み出しています。

「オープンしてちょうど1ヶ月ですが、カフェタイムには地域の方がお茶を飲みに来てくださったり、バータイムには若者がお酒を楽しんでいたりと、思った以上にたくさんの方にご利用いただいています」と話す高野さんは、施設の運営、調理やバーテンダーなど1人で何役もこなしています。

1階のKawamata-BASE cafeは、落ち着いた雰囲気の店内で川俣町特産の川俣シャモを使用したランチプレートをはじめ、川俣シャモハンバーガーやスイーツ、淹れたてのコーヒーが味わえます。18時からはバータイムに切り替わり、オリジナルカクテルやウイスキーなど、種類豊富なアルコールとおつまみが楽しめます。

2階のコワーキングスペースは、さまざまな業種や職種、年齢の人たちが集まり、仕事をするオープンスペースとなっていて、会員になれば1時間500円で利用できます。さらに同じフロアにある音楽スタジオでは、楽器の練習やバンドのリハーサルなどさまざまな音楽活動が可能。学割料金も設定されており、学校帰りの学生が利用することもあるのだそう。この充実した施設を立ち上げた高野さんには、町を盛り上げたいという並々ならぬ想いがありました。

ふるさとを奪われ、疎外感を感じた青春時代

川俣町山木屋地区で生まれ育った高野さんは、毎日のように虫取りをして遊んだり、農作業を手伝ったりと、豊かな自然に囲まれてのびのびと過ごしてきました。しかし2011年3月11日、小学6年生だった高野さんの人生は大きく変わります。

「卒業式の練習中に地震が起きて、急いで体育館から外へ逃げました。その日は一晩中停電していて、家族みんなで車で過ごしたことを覚えています」

福島第一原子力発電所の事故後、原発から約40km離れた川俣町は避難指示区域には入らず、地震の被害はあったものの通常の生活が送れていました。しかし、震災発生から1カ月後の4月10日、町内の一部地域で年間積算線量が20ミリシーベルトを超える可能性があり、住民を避難させる必要があるという知らせが届きます。それが、高野さんの住む山木屋地区だったのです。

「中学校に入学して2週間ぐらい経ったころでした。朝学校に到着すると、突然先生から『今日から学校の場所が変わります』って言われたんです。その日から山木屋の学校には通えなくなり、川俣町の中心部にある小学校の一部を間借りして学校生活を送ることになりました」

それだけではありません。住みなれた家からも離れなければならず、高野さんは一家で引っ越しを繰り返すことになり、慣れない環境で疎外感を感じながら中・高校時代を過ごしたと言います。

「避難先の中学校は2回ほど場所が変わりました。山木屋地区から来たことでいじめられてしまう子もいたし、ここは自分の居場所ではないという気持ちが常にありました。だから、町中の学生と仲良くなることはなかったし、すれ違ってもあいさつすらしませんでした。中学時代は楽しいと感じるようなことはなく、与えられた環境でただ流されるように生きていましたね」

その後は高校へ進学して新しい友だちができたものの、何度か引っ越しを繰り返して落ち着かない日々だったと振り返ります。

震災の経験を語り継いでいくために

震災の経験は、思春期の高野さんに大きな影響を与えました。放射線や原発被災地域について学びたいと考えるようになった高野さんは、福島大学に進学。在学中には浪江町、双葉町、大熊町などに行き、地域の方たちに聞き取り調査をしながら被災地域のまちづくりについて研究しました。卒業論文は、故郷の山木屋地区について書いたそうです。

「ふるさとを奪われた経験は辛く苦しいものですし、いまだになんで奪われたんだろうって思うこともあります。けれど、その経験があったからこそつながった縁もたくさんあって、たくさんの方に支援いただいたおかげで、今の自分があるということに気づくことができました」

今度は、自分が経験したことを語り継いでいきたいという気持ちが芽生えた高野さんは、次第に川俣町への想いを強めます。そして、町の活性化の力になりたいと大学卒業後は川俣町職員に入職。しかし、2年間従事したあと、高野さんは大きな決断をします。

                                 (後編へ続く)